日本の祭りレポート
しれとこしゃりねぷた
江戸末期、ロシアは日本との通商を希望して様々なアプローチを繰りかえしました。が、幕府の態度が煮え切らないためは択捉(えとろふ)に侵攻。幕府は東北の各藩に警備を命令します。そこで津軽藩が斜里へ。斜里は弘前よりもはるかに寒い極寒の地。結果、藩士100名のうち7272名が寒さとビタミンCの欠乏による壊血病で落命。この史実は戦わずして死んだ恥、ということで闇に葬られます。しかし生還者のひとり斎藤勝利が記した和綴「松前詰合日記」が北海道大学の高倉新一郎教授によって発見され、はじめて真実が明らかに。それにより斜里に津軽藩士殉難慰霊碑が建立。さらに斜里の人たちは門外不出の「弘前ねぷた」を斜里でもと懇願。結果、藩士らの霊を弔う意味で「しれとこ斜里ねぷた」が北の大地に誕生したのです。
【取材・文:苦田秀雄】
1807年、斜里での警備を命じられた津軽藩士72名が飢えと寒さで死亡。
地元では慰霊碑を建て供養しました。それが縁で門外不出の「弘前ねぷた」が伝授され、根付いた祭りです。扇ねぷたが「ヤーヤドー」の掛け声とともに巡行。武者絵が描かれた迫力のねぷたと美しいねぷた囃子の大合奏が、世界自然遺産・知床の夏を彩ります。